1. オルガンコンクールの時代
電子オルガンは、1970年代ヤマハのエレクトーンをはじめ、カワイのドリマトーン、日本ビクターのビクトロン、松下電器産業のテクニトーンなど、楽器メーカーや電機メーカー各社が参入し、開発を行なっていました。楽器演奏者の技能向上や底辺を拡大するためのイベントとして、コンクール(注1)の存在が欠かせません。
- (注1)
- ヤマハでは「エレクトーンコンクール」、カワイでは「ドリマトーンコンクール」を毎年開催しています。
2. ビクトロンコンクールとテクニトーンフェスティバル
2.1 ビクトロンコンクール(1971-1990)
ビクトロンコンクールは、日本ビクター株式会社の音楽教室部門であるビクター音楽教室本部の主催で1971年(昭和46年)から1990年(平成2年)まで開催されていました。全国で開催された地区大会(予選)を勝ち抜いた代表が全日本大会に出場、全日本大会は例年中野サンプラザホールで開催されていたため、ビクトロン演奏者にとって中野サンプラザは高校球児の甲子園のような存在、憧れの舞台でした。
ビクトロンコンクールは1990年に開催された20回を最後に終了し、1991年からビクター・テクニクスミュージックフェスティバルと改められました。
2.2 テクニトーンフェスティバル(調査中)
松下電器産業の主催で開催されていた、電子オルガンの行事。大阪フェスティバルホールなどで開催されていたようですが、詳細は調査中です。
※情報をお持ちの方、プログラムやチケットお持ちの方、資料をお寄せ下さい。
3. ビクトロンからテクニトーンへ
3.1 ビクターテクニクス・ミュージックフェスティバル(1991-2001)
1990年(平成2年)、松下電器産業、日本ビクターは双方の音楽教室部門を統合し、ビクター・テクニクスミュージック(株)(略称VTM)を設立、オルガンのイベントは、「ビクター・テクニクスミュージックフェスティバル」と新装しました。
フェスティバルで使用する楽器はテクニトーン(松下電子オルガン)に一本化されることとなりました。しかし、音楽教室のコンテンツは日本ビクターの方が充実していたため、コンクールの内容はほぼビクトロンコンクールを継承したものとなりました。システムや部門名称はもとより、審査委員長は前田憲男氏が、司会者も中島績、若林真弓両氏が引き続き担当していました。
このように両社は一度事業を再構築しましたが、さらに再編を行なうことになります。
4. ローランドが継承 新しい時代へ
4.1 RMSオルガン・ミュージックフェスティバル(2002-)
松下は21世紀を前に社業の抜本的見直しが行なわれ、楽器事業もその対象となりました。
2001年9月、VTMはローランドに音楽教室事業を売却し、ミュージックフェスティバルはローランドが継承することとなりました。余談ですが、ローランド創業者の梯郁太郎氏はエース電子工業の創業者でもありますが、松下は楽器事業に参入した当初、エース電子工業製の電子オルガンをOEM販売をしていた時期がありました。
こうして、フェスティバルで使用される楽器はミュージックアトリエ(ローランド電子オルガン)に変更となりました。ビクトロン演奏者にとっては10年を経て二度目の楽器変更であり、紆余曲折はありましたが、電子楽器製造を生業とするパートナーを得ることができました。ローランドは電子オルガンの活性化に意欲的です。ヤマハの低価格モデルEL-100(2002年4月)に対抗するモデルAT-15(2003年7月)や、生徒向け上位機種AT-45(2004年3月)を投入しています。
AT-15(2003年) | AT-45(2004年) |
電子オルガンの活性化に積極的なローランドは、電子オルガンの新しい時代を築いていくことでしょう。
2004年8月7日(サッカー アジアカップ日本2連覇の日に)